久しぶりのアゴラ劇場。前回が岸田理生さんの「空・ハヌル・ランギット」だった。あれから何年だろう。理生さんはじめ何人かの友人が逝ってしまった。劇場は残り、文章は残った。乾千恵さんの力強い「書」、矢萩竜太郎さんのイノセントなダンス、久田舜一郎さんの時空を超えた鼓と声、それら新たなファクターを載せての上演となった。
稽古段階から役者の間で問題になったのは文章だった。残そうと思って書いた種類の文章ではないのだろう。その時そこにいた個人宛に書いた台詞。それを「今・ここ」でなりきって言わなければならない。その役者の苦労を稽古帰りの会話で聞き続けた。自然にできない、意味を身体が理解できない、ということが話題になる。(宗方さんのある台詞はまさに彼宛に書かれたもので、やはり響きが違って聞こえた。)
ある意味で健康なことでもあるだろう。多くの役者達はどんなに技術や経験を多く積んでいても、それで「食べていく」事はほとんど不可能だという。手弁当で参加しているのだから、「なぜ」を解決しないといけない。音楽の仕事は、「ハイハイ」と経験・技術で乗り切ってなにがしかのお金をいただく事ができる。「なぜ、今・ここで私がこれを弾くの?」を問うヒマも答えるヒマもなく過ぎていくこともある。引き受ける段階ですべてが決まっている。「仕事」とはそういうもの、プロとはそういうもの、そういう仕事をしつつ、いつか自分の好きな事をやるのだ、と言ってもそうは問屋が卸してくれるだろうか?
役者達の健康な疑問にこのコトバたちは答えられたのだろうか? 書・ダンス・鼓、そして悩んでいる役者たち、が印象に残った。それらは確かに今を生きていた。ともあれ、役者・照明などとの共同作業、それもその場限りで終わってしまう演劇というものは魅力のあるものだ。その猥雑さは他にない。音楽が役に立つことはとても嬉しいことだし、それが音楽本来の役割かもしれない。ともかく普段考えられないいろいろな視点を体験できた。
このブログを見て観劇に来てくださった方、どうもありがとうございました。