リオのカーニバルを取材した映画「黒いオルフェ」で作者のヴィニシウス・ジ・モラエスは「不幸せには終わりはない。幸せには終わりがあるのに。(「フェリシダージ」)」と詞を書いた。だからカーニバルがあるんだ、と。
古今東西の祭りでも、大騒ぎ、非常識、非日常が繰り広げられる。それが許されるのはそこに「生」と「死」があるからだろう。とりわけ「死」があるからだ。真剣なバカ騒ぎは「死」が支えている。
「表現」も同じだろう。ここには「死」があるのか、ということが常に問われなければならない。
最近体験した二つの市民参加型のイヴェントでそのことを強く感じた。「はまミックス」と「公共ホール現代ダンス活性化事業」。「はまミックス」は、市民とプロ(作曲家・演奏家)がワークショップをして作品を作り上げる。私はフランスに行っていたのでリハと演奏会だけに参加した。(それでいいという条件だった。)「ダンス活性化事業」はコンテンポラリーダンサーが地方へ赴き身障者、子供、家族などさまざまなワークショップをし、最後に自分自身の公演をする。私は岩下徹さんの即興ソロパフォーマンスに参加した。愛知県三好町。
後者はとても興味深いプロセスがある。まず、ダンサー達が全国の公共ホールの担当者の前でプレゼンテーションをし、ホール側が気に入ったダンサーを選ぶ。お金は財団から出るので、地方ではダンサーの経費を考えなくても良い。ダンサーも思いきり自分をぶつける。「高名」なダンサーもホールからのオファーがなければ仕事はない。岩下さんと私のデュオは入場料500円だった。内容は、特に地方のことを考えたものではなく、ヨーロッパや、東京でやることと何ら変わりはない完全な即興の1時間だった。必ずしも多いとは言えない聴衆の反応・感想はとても真剣でこちらが感動してしまった。(岩下さんは出来る限り演技後にオーディエンスとの対話の場を持つ。)
アメリカでのコントラバスフェスティバルでも、教育に何らかの関係があると予算がおりるため、その関係の催しが多い。日本でもドンドンそう言う傾向が出てくるだろう。
地方の文化事業に携わったその地方出身でない人たちが、「地方のためになっていない、自分勝手に利用しているだけだ」とリコールされる例をいくつも聞く。「地方に合わせる」ことの解釈の問題だろう。「トーキョーじゃないんだから、地方ではムズカシイことはムリです。」とか「みんなに親しみやすいことをやってください」というコメントは果たして真実だろうか?
そうだ、そうではない、という水掛け論になるのは目に見えている。
「はまミックス」では、徹底的に「わかりやすい」方向を試行錯誤していた。そして、それを演奏するときには相当の覚悟が必要になった。「音楽」をさまざまな「要素」の集まりと考えている傾向が強く、時に、「死」のないバカ騒ぎに見えたシーンもあった。一方、ムズカシクしか言えないときは、整理がつかなくて、観念に頼っているだけかもしれないし、美しいものは単純でしかも複雑だ。マニアだけを対象にした表現はどこか空しい。 方法ではなくて「死」があるかどうかを基準に考えること。その方が、私には肌が合う。来週シンガポールのフェスティバルから帰って翌日から青森県美術館でダンスの公演に参加する。今月三つ目の公共の市民参加型の仕事だ。二つの仕事から考えたことが青森でどうなるか、楽しみだ。