「忘れない」

前回から重い話になってます。
アジアの国々を訪ねると必ずと言っていいほど聞く、聞かされる言葉は「バカ野郎」と「海ゆかば」だ。韓国でも、シンガポールでも、インドネシアでも。フランス、ナンシーで若い台湾系フランス人映像作家からも聞いた。(父親から聞いたということだ。)

ザイ・クーニン(マレー人アーティスト、映像・詩・ダンス・歌・絵画なんでもやる)とのつきあいも十年を超える。シンガポールで公演をしたとき、彼が「新しいアトリエを作ったから招待する」という。船を乗り継いでインドネシアにはいる。さあここです、と案内されたのが、海の上!

想像に難くないが、トイレは丸い穴一つ。下で魚が泳いでいる。夕食は魚を釣って食べる。イスラムだから箸は使わない。勿論私達も使わない。

ある日、「海賊の島へ行こうか」という。勿論地図に載っていない島だ。アトリエの島からボートで3時間くらい。無線も磁石もない海を「ヤンさん」は何の迷いもなく進む。「アルコールは持って行くなよ。どうなるかわからないぞ」と脅される。夜、島に着く。島の中心に大きなダイナモを回し発電。島の回りを監視船が回る。島民の9割が血族。ザイはマレー人のシャーマン系一族の末裔。マレー人の故郷がこのリアウ諸島だということでこのあたりの島々をよく回っている。タバコや食べ物をおみやげに持って行くことを忘れない。彼とのつきあいが成功しているので海賊のボスの信頼も厚い。そのおかげで私(と井野さん)も上陸できたのだ。桟橋で眠る私達。↓

巧みな舟作りと白塗りをした島の子供

初めのうちは、私達を中国人と思っていたので問題は無かった。彼らは海賊業?を辞めて漁業をやり魚を中国人に卸す、という転換をしていた。ところがある時、私達が日本人とわかって、彼らの態度が一変する。そしてお約束の「バカ野郎」「海ゆかば」になる。ボスが海のあちこちを指し、あそこに友達が死んで浮かんだ。あそこにも・・・・無念を思い出していたが、私達を追い出す、と言うことはなかった。こんな島にまで日本軍が来ていたことも驚きだった。そして、やられた側は「バカ野郎」を忘れない。そして私は菊の紋章のパスポートを持っている。

ザイの両親にしても、相当日本人にやられていた。「バカ野郎」のイントネーションが本当に恐怖を与えるようなものだった。マレー人の土地がシンガポールに奪われてしまってから、彼らは「結婚式」の音楽以外はドンドン禁止されてしまう。迫害はいまでも日常的だ。初めて食事に招待された時、牛の背骨を調理したかなりディープな料理がでている。私が食べるかどうか試しているようだった。勿論おいしくいただきました。私の演奏を見て「ザイよ、あの人と時間を共有したらどうか?」と言ったそうだ。その後、福岡アジア美術館オープニング、CD制作、様々な共演をしてきた。

岡本太郎美術館でのザイ・徹・井野

もう一つ。
9/11というとワールドトレードセンターの日として毎年話題になるが、1973年の同じ日にサンチャゴでアジェンデ政権が倒されたクーデターの日でもある。アメリカ政府の関与が明らかになっている。3万人が殺された。その中の一人がビクトル・ハラ。新しい歌の運動を進めていた。彼が大統領府に駆けつけた所を軍により捕まり、チリ国立スタジアムに連れて行かれ拷問を受け殺された。2003年9月11日に、そのスタジアムが「ビクトル・ハラ・スタジアム」名前を変えた。30年後のこと。彼の歌は世界中で歌い続けられている。忘れないのだ。ビクトルの一週間後に死んだパブロ・ネルーダの詩も読み続けれれている。

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