それにしてもリハーサルばかりの日々が続く。アラスカ大学のリサイタルホールにリハーサルの場所も移動。目的となる音楽があり、それを実現するために人々が集まって練習する。そして本番。そしてさよなら。考えてみれば「楽な」仕事ともいえそうだ。自分に何が求められているかがわかり、それが実現可能であれば良いわけだ。
しかし私は、「これをしていないと、生きていけない」という感じが好きなのだ。
上手・下手、有名・無名、安い・高い、などとは関係なくそのことが一つの基準になっている。上手な人がゴージャスな環境で良いものをやる、というのにいつも違和感が残る。エンターテイメントの発想だと入場料千円の人と1万円の人とはっきり比較できる。与える側と受け取る側は、お金を媒体とした情報と満足感のやりとりが水平的に成り立っている。逆に言うと、これをしてないと生きていけないという音楽は商売には乗りにくいのだろう。商品と作品。
しかしもともとは、演奏側も、聴衆側も「上にある何か」に向かっていたのではないだろうか。それは神かも、仏様かも、自然かもしれない。仕事のために演奏できない人が、できる人にやってもらう。そのお礼としての「お布施」。音楽も演劇もそれこそ相撲も柔道も捧げものだった。
ぼやぼやそんなことを考えていると、英語が全く聴き取れなくなる。指揮者の指摘も遠ざかっていく。これではいかん、今ここでやるべきことをやるのだ、と我に返る。
ベースの弦とゲンダイ音楽は微妙な関係がある。生のガット弦にしてから、何作かゲンダイ音楽をやった。作曲者とのリハーサルで、三人が三人とも生ガットでなく、ガットの金属巻きやスティール弦の音を好み、それでやってくれと言ったのだ。はっきりとした音=倍音の少ない音=細くて音程のとりやすい音=回りとブレンドしない音と言うことなのだろう。また作曲家の頭にはスティール弦の音しかないのかもしれない。そして今回もそうだった!A線のハイポジションでの人工ハーモニックス連続のフレーズなどはガット弦では至難の技。やむなく借りたときについていた弦にする。何と弾きやすいことよ。
弾きにくいこと、上手に聞こえないこと、音の小さいことこれらは単純に弱点のように思われるが、そうでもなく、豊かな音楽に導いてくれることが多いのだ。