耳寄りな話 1

昨年は大きな替わり目でした。なんと正月早々に突発性難聴で入院。初めて見る六本木ヒルズを眺めながら日々を過ごしました。病気が病気なので、演奏を続けられるかどうか、を初めて本気で考えました。いまさらどうしよう、とも思いました。嘘であることを望み、そうでない事実に直面する。夢にも想像できないことが実際におこったわけです。

ステロイドのパルス点滴をしていて、ステロイドが気分を左右することも知りました。ある時はハイになって世界中に感謝したくなり、夜中病棟を踊るように歩き回ったり、ある時はもうだめだとふて寝をしたり。そうです。人間の感情なんてクスリでどうにでもなるのですね。感情は自分だけのもの、譲れないものでもない。とすると、その考えからどこに広がるか?結構おもしろいです。究極的には自己とは免疫システムだという話も面白い。とりあえず、あまり自分の感情を所有しないことが良い。感情などは意味ない、というのではなく、感情を信じたいため、愛おしみたいために、そういう回路を通したいと思いました。

片耳は正常で、悪い方も高域は機能しているので、入院中いろいろ気づきます。感情うんぬん言う前に、「人間は音」と言うこともできる気がしました。カーテン越しに同室の患者さん看護士さんの呼吸の音、衣擦れの音、歩く音、食事の音、身体に触る音でだいたい誰だかわかってしまいます。

そういえば、ハングルで「音」は「ソリ」と言います。「ソリが合わない」とはそういうこと?反りの角度が合わないという解釈も知っているけれど、こっちの方が面白い。小泉文夫さんの話で印象的だったことに、台湾の首狩り族の話があります。彼らが戦いにいくとき、コーラスをしてうまくハモらなければ、首狩りに行かない。皆の気持ちが一緒でないからで、負けることは死ぬことだから。その微妙な判断を音に託した、という話を思い出します。

「音」と「感情」は別次元のもの。だから「音」の下に「心」をつけて初めて「意」になるのでしょう。感情を所有せずに、音に貞く(きく)ことで、大きな世界に導かれる。世界は見るものではなく、「聴き取られる」ものだ、と「NOISE」という本(邦訳はなぜか「音楽/貨幣/雑音」みすず書房、という題)言ったのはジャック・アタリでした。

白川静さんの「常用字解」によると「音」は「言と一を組み合わせた形。もとの字形は言の字を基本とする。言は神に誓い祈る祝詞を入れた器であるサイの上に、もし偽り欺くことがあれば入れ墨の刑罰を受けるという意味で、「入れ墨用の針(辛)」を立てている形で、神に誓って祈る言葉を言う。この祈りに神が反応するときは、夜中の静かなときにサイの中にかすかな音を立てる。その音のひびきは、サイのなかに横線の一を書いて示され、音の字になる。それで音は「おと」の意味となる。おとはとは、神の「音ない(音を立てること。訪れ)」であり、音によってしめされる神意、神のお告げである」(サイは日の上の横棒がない字です。テツ注)すごい知恵ですね。

いままで当たり前だった感覚を失なって、いろいろと考えを巡らすことになりました。

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